ある日。
日の出頃、取り憑かれたように部屋の掃除をする。机に積み上がる本をどかすと、「2020.02.15 日記」と書かれたボロボロのメモ用紙があった。感情が色褪せぬうちに書いておく。
アニメ『xxxHOLiC』を観ていたら、ベッドサイドの机にお香が焚いてある。買いたい。揺れる煙がなんか良い。どうしても買いたい。「名古屋_お香」で検索、お香・線香・香木・数珠の専門店が最初に出てきた。善は急げと云うことで、さっそく車で店に赴く。
私は私のGoogle Mapsと仲が悪い。お香店周辺の一方通行で張り巡らされた小道を右へ左へ15分。
ようやくたどり着いたお店は綺麗な木造の建物で、新築の香りといくつものお香の香りが混ざった、初めましての匂いがした。店内を見渡すと、壁一面に白檀・沈香・伽羅の文字。黒服にポマードの匂う大男の店員さんが出迎えてくれた。
店の敷居を跨いだ時、我に返り激しく後悔した。善を急いだ私はダウンジャケットにジャージ、そして季節外れのサンダル。コンビニにフラッと立ち寄るラフさで店を尋ねていた。場違いだった。けれど、もう後には引けなかった。
「お香は体調やその時々によって、匂いの感じ方が変わるものなんです」
しばらく説明を受け、黒服は初心者セットを取り出した。
それは基本の香り、白檀と沈香が10種類2本ずつ合計20本がひとまとめに入った初心者にうってつけの代物。
黒服の話をふんふんと聞いているうちに、お香の奥深い世界に飲みこまれそうになる。一旦冷静になろうと深呼吸をしたが、気づいた時には、紹介された初心者セットに加えて、翡翠色の香炉も購入していた。
黒服と少し談笑したあと、店を立ち去ろうとすると、入り口横、掲示のポスターに「輪島塗の展示会」の文字。どうやら、たまたま今日2階で展示会が開催されているようだった。
さして興味はなかったが、何かの縁を感じたのと黒服の話術に圧倒され、気づい頃には2階にいた。会場には日本で数少ない、玉虫蒔絵の技術を持つ輪島塗の職人さんが今まさに作業をしている。職人さんを中心として、輪島塗の食器や蒔絵がゆったりとした間隔で展示されていた。展示会とはいえ、売り物もあると云うので、黒服に随いていく。部屋の奥待った場所に玉虫蒔絵が展示されており「¥3,000,000」と朱色で書かれた値札があった。あぁ、さらに場違いなところに来てしまった。激しく後悔したが、相変わらず引くに引けなかった。それから30分ほど、変な汗を背中にかきながら、見たことも聞いたこともない作品を自分のできる限りの語彙力で褒めちぎった。
店を出て車に戻ると疲労感でしばらく動けなかった。
ただお香が買いたかっただけだったのに。
昼休み。薄暗いデスク。鬱屈な気分。
YouTubeが「Billie Eilish(ビリー・アイリッシュ)」を表示した。髪はいつぞやにみた「玉虫蒔絵」を彷彿とさせる色合い。服はダボダボ。得体が知れない。でも、カッコイイ。
その動画は、無断転載された朝のワイドショー。「Billie Eilishが、第62回グラミー賞の主要4部門を独占。これは39年ぶりの史上2度目快挙であり、女性としては初。そして史上最年少の18歳での独占となった」と景気良く語る。
「グラミー賞」がどれほどかは知らない。けれど、とにかく何かがすごいのは伝わってくる。
間を開けず、歌い方がすごい、曲作りがすごいと専門家らしき人物が褒めちぎる。コメンテーターの背後に流れていた『bad guy』を探して、早速聴いてみる。
正直なところ「よくわからない、でもなんかいい」。
私は英語にも歌にも疎い。さらに歌詞がわからない。アメリカの音楽事情を知らない。歌い方がうまいかどうかも分からない。
だからと云って、わからないものを「藝術だから」と、画一的に押し込めるような真似はしたくない。それは努力した人に対して、あまりに失礼な行為に思える。
また、グラミー賞を盾にしてこんなにすごいんだ、と取ってつけたような理由を言っても、必死に言い訳しているようでなんだか惨め。わからないものは好みの問題でしかない。すごいとか売れてるとかじゃなく、なんだか好きか、なんだか嫌いでしかない。
ビリー・アイリッシュの歌声は小さく表現はどこか闇を抱えている。けれど、確かに何かには惹かれた。キャラなのか世界観なのか。そういう違和感を大切にしたいし、それが答えなのだろう。
「以前から思っていたのですが、ビリー・アイリッシュって、そこはかとなくいい感じですよね」
……ミーハーここに極まれり。
ふと、あたりを見渡すと、リビングは散らかったままだった。
玉虫蒔絵 相沢睦
脚注
●香源 名古屋本店
香源 名古屋本店
●Billie Eilish
①
②